
傷つかない人ではなく、濁らない人へ
人に踏み込まれたあと、
何が嫌だったのか、うまく言葉にできないことがある。
怒りというほど強くもなく、
でも確実に、心の中にざらつきが残る。
それは、暴力でも、露骨な悪意でもない。
むしろ「善意」や「好意」の形をしていることが多い。
だからこそ、
嫌だったと感じた自分のほうを疑ってしまう。
断れなかった私が悪いのか。
気にしすぎなのか。
これくらい、受け流すべきだったのか。
そうやって考えているうちに、
本当は何が起きていたのかが、見えなくなっていく。
あとから気づいたのは、
問題は出来事そのものよりも、
「自分の領域に、許可なく踏み込まれた感覚」だったということ。
家、体、時間、気持ち。
人それぞれ、大切にしている境界は違う。
それが曖昧なまま触れられたとき、
心は、静かに疲弊する。
その場で言い返せなかったとしても、
笑ってやり過ごしてしまったとしても、
あとから「嫌だった」と思ったなら、それは確かな感覚だ。
無垢でいることは、
何も感じないことではない。
傷つかないことでも、
我慢し続けることでもない。
無垢でいる、というのは、
自分の感覚が濁らないように守ることだと思う。
正しさを振りかざさず、
やさしさを自分に強要せず、
「嫌だった」という小さな声を、なかったことにしない。
すぐに境界線を引けなくてもいい。
うまい言葉が出てこなくてもいい。
その違和感を、
心の中でちゃんと認められたなら、
それだけで十分だ。
誰かを責めなくていい。
でも、自分を責める必要もない。
もし今、
説明できない疲れや、
うまく言葉にできない違和感を抱えているなら。
あなたの感覚は、間違っていない。
傷つかない人ではなく、
濁らない人へ。
その選択は、
とても静かで、健やかな強さだと思う。